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工房駐車場敷地内に高さ2m弱の山﨑翁の碑(大正十年に山﨑金造氏を顕彰して建てられた碑をあきる野市落合地区より移築)があります。

 碑文

 山﨑翁の碑

 

(累)生努力善く一事を大成し万人の亀鑑となる者は必ず得道の士なり 

我れ金造山﨑翁に於て之を見る 

翁は横浜開埠・前年安政五年四月十五日を以て生る 

父治郎左衛門は多摩郡乙津村森屋金兵衛の三男八左衛門の長男にして落合村山﨑氏を嗣ぐ翁實に其嫡子にして母はツヤと称す 

維新の政緒に就き商工富国の論 漸く知るに当り翁大に感する所あり 

小資を以て生糸の売り買いに着手す 時に明治七年なり 

爾来拮据十余年名声遠く関西に及ぶ

然るに弊制動揺の余波明治二十三年銀債暴落の大恐慌あり一家覆没の危に遭ひ八王子新町に移り僅かに撚糸業を開始す 

偶八王子町関谷源兵衛 戸倉村田中銀蔵 郷人高野源蔵及び沖倉仙造の諸氏翁に見る所あり緊急の出資を諾したるにより其年十月父母を省し工場を小宮村字大沢に築き新式機関を据え世間軽視する所の玉繭を紡績して撚糸となし近県の機業地に供給す 

資力尚小足らず具さに困苦の常は然れども製品好評を博し玉繭紡績の元祖と称せられ数年ならざるに工女百五十人を雇ひ巨万の利を得たり 

爾後逐年盛運に向ひ更に植林に従事し道路橋梁教育赤十字事業等公に奉ずる所亦少からざりき 

惜哉胃腸を病み東京長興病院に入り療養二年にして明治四十年七月六日を以て没す 享年五十 子なし 弟徳治郎を嗣とし室ぶん乙津氏なり勤勉貞淑慈愛に富み(顧)

る内助の力あり 

翁孝悌また天真城府なし自信厚く窮苦ニ屈せず施為専一企(割)雄大進止果断往々俗を驚かし無敵金と称せらる其能く近世商工史の縮図となり富国奉公の基を成せる所以全く慈に存す 

翁の無敵豈古人の無適ならざらんや翁もと余が父母の月下人たり余を視る児孫の如し

別来二十余年学ぶ所徒に多岐亡羊以て見にべきものなきを愧つ

 

大正十年十二月

 

宮中顧問宮正三位勲二等  北条時敬 篆額

法  学  士      坂本栄吉 撰文

山口高等商業学校講師   久保村秀方 書

 

碑文訳と解説(作成中)

 

山﨑金造
安政五年(1858年)四月十五日生
『無敵んさん』と呼ばれていた。50町歩の山を切り開いて、とっくりを背に乗せた馬にまたがり、ピストルを持って山を見回った。

治郎左衛門
乙津の森谷金兵衛の三男の八左衛門の長男
ツヤ


明治七年(1874年)
明治二十三年(1890年) 銀貨暴落

八王子新町へ
八王子 關谷(せきや)源兵衛(八王子第4代町長)
戸倉村 田中銀蔵(田中元あきる野市長の祖父か父)
郷人 高野源蔵 沖倉仙造
彼らからの出資を得て、小宮村字大澤(軍道から乙津へ抜ける峠)に工場
新汽関を使った生糸
女工百五十人を雇い巨万の富を得る
道路・橋梁・教育・赤十字など公的事業に力

明治四十年(1907年)七月六日没
享年五十歳 子なし
弟徳次郎が後を継ぐ(石碑を立てた人でひゃくさんの父)

大正十年(1923年)十二月(石碑の日付)

篆額 宮中顧問( 叙勲) 北條時敬  (ほうじょうときゆき)
東京帝大卒数学者 山口高等商業学校2代目校長(西田幾多郎を招く) 四高(金沢大学)校長 広島高等師範学校(広島大学)校長 東北帝国大学(東北大学)二代目
校長 学習院院長 貴族院議員

撰文 法士 坂本栄吉  (「大多摩興隆のために」を1926年に出版 坂本雅城の親類)

山口高等商業学校(山口大学) 久保村秀方 (久保村 黄鶴)山形出身